栃木SCに9シーズン在籍し中心選手として活躍してきたMF只木章広が、ほかの多くの仲間と共に退団した。高校教師の只木は、来季完全プロ化構想の中で残留できなかった。栃木SCに彼がいないことを想像するのは難しい。まだ32歳。年齢的な衰えもなく、自ら退団を希望した訳でもないのだが、これも流れの一つなのだろう。
只木の印象はJFL参戦1年目(2000年)から鮮烈だった。当時はまだ「司令塔」の言葉が普通に使われていたが、栃木の背番号10番はFWよりもシュート数が多い選手だった。速くて前向きな攻撃タイプだったが、主将を経験(03~05年)し守備意識も高まった。主将時代の只木は、周りにいろいろ言うのではなく、自分が全力プレーすることでチームを引っ張っていた。
1年前、「チームをJ2に昇格させて引退する」と誓ったものの、その夢はかなわず、失意のシーズンとなってしまった。ケガもあって前期は出場ゼロ。「育ててもらった高橋監督の力になれなかった」ことが心残りだ。柱谷監督に代わった後期は11試合に起用され、4試合は90分間フル出場。最終戦も61分、小林に代わって途中出場した。上野(54分に交代)がつけていたキャプテンマークは、谷池が気をきかせたそうで、山下が左腕に巻いてくれた。76分には栃木SC最後のシュートを放った。ミドルレンジから、ゴール上に外したが「失点した後で流れが良くなくて、シュートで終わることが大事」との判断だった。
ラストゲーム後のセレモニーでは選手たちが一人一人抱きついてきて、只木は涙でくしゃくしゃになった。「自分はみんなに支えてもらっていた人間だったから」。本人には知らされていなかったうれしい出来事もあった。指導する宇都宮白楊高サッカー部の部員たちが寄せ書きのフラッグと花束をプレゼント。今度は笑顔でくしゃくしゃとなり、胴上げまでされた。記者団に囲まれた只木は退団することについて聞かれ「古い人がチームを去ることは、新しい変化にいい流れを作ることになる。そこまで携われて、悔いはない」と言った。9年間を振り返って「つらかったころのことは思い出せないですね。忘れられないのは吉見が3点目をぶちこんで勝ったホンダ戦(05年)。ホンダに勝つことは夢だったんですよ。強くて規律あるホンダより強くなることが目標だったから、同じレベルまで来たんだと…。自分のゴールよりうれしかったなぁ」。
今後は「生徒を全国や次のステージに導くこと。指導者としても恩返ししていきたい」と教師の顔に戻ったが、「これまでの仲間ともう少しサッカーをやりたいですね。今を逃したら、この仲間たちを集めることはできません。雄二(遠藤)とか高秀とか茅島とか…。自分も、選手でもコーチでも、何らかの形で携わりたい。栃木SCを応援しながら、サッカーを続けられればと思います」と、選手としての意欲も衰えていない。JFL通算175試合に出場し、FW佐野の40ゴールに次いでチーム2位の33ゴール。「栃木不動の10番」として相手チームに恐れられた、真の郷土のヒーローだった。同じ真岡高―順天堂大の堀田と種倉とともに、栃木サッカーの一時代を築いた功労者でもあった。